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ー第4章ー 1.腐った林檎達

Penulis: 土浦タカ
last update Tanggal publikasi: 2026-09-19 23:46:18

モデルの仕事は順調そのものだった。将来の事で散々悩んだ時期を思うと拍子抜けする程簡単だった。広告、雑誌に起用されてようやっとポージングや表情にも慣れた。ウォーキングは何度も練習をする内に服を映えつつスタイルを良く見せる歩き方というものが身に付いてきた。勉強にモデルにと忙しいため、セシルと顔を会わせる時間が減ったのが唯一残念に思う事だ。セシルも夜のキャバレーやショークラブなどで歌う事が多くなったからだ。思わずその事をセシルに話すと「僕も淋しいよ、イレヱヌ」とセシルが淋しそうに微笑んだ。

そして仕事に慣れていく内にファッション業界というものの“常識”を学んでいった。モデルなど所詮は動くマネキン。所謂“枕営業”なんて珍しくもない。体型維持のためならドラッグだって平気でやる。知れば知るほど失望の連続だった。(此れがあたしの居場所なのか……)そう落胆もするが、それでもしがみつくしかない。(だって、あたしは此れしか出来ないんだもん)ようやっと見つけた自分の居場所と言えるものだったのだから、求められる限りは此処で戦いたかった。コンプレックスの反動で半分意地になっていたかもしれない。もう先の見えない未來に鬱屈した思いを抱えるのは御免だった。

イレヱヌには理解が出来なかったが何故かデザイナーのパーティーに出席するのはこの世界では常識らしい。「どうしてもデザイナーが出席して欲しいって…。頼むよイレヱヌ」エージェントに懇願されるがイレヱヌは仕事の後はゆっくりしたい。幸運なことに今巴里にはセシルもいた。直ぐに帰ればショークラブの仕事を終えたセシルに会える筈だ。しかし、この世界ではコネクション作りのためにはそういった付き合いは必要不可欠らしい。(この世界は、腐ってる)イレヱヌは自分の居場所を唾棄した。

パーティーが終わったら直ぐにアパルトマンに戻った。どうやらディスコで二次会があるらしいが興味が無い。セシルは夜中まで仕事なのでまだいない。部屋でふう、と溜め息をつく。ようやっと人間に戻れた様な気分だった。バスタブに薔薇の馨りの入浴剤とシャワアでお湯を張って泡風呂を作る。バスタブに脚を伸ばすとメイク汚れや汗以外の汚れも落としてくれる気がした。

(今日も終わった)その安堵がイレヱヌを包む。

(あたしは後何年此の世界で生きていくのだろう)ぼんやりと頭で考えるも、先の事は全く分からない。

パタンと玄関のドアが開く音がした。

(セシルが帰ってきた)

そう思うが、もう少しバスタブに浸かりたい。あの世界にいると着飾れば着飾る程自分は汚れていく気がするのだ。もう少し綺麗な状態でセシルと顔を合わせたかった。イレヱヌは泡風呂に鼻から下を沈める。

「イレヱヌ、帰っていたんだ」バスルームの扉が開けられてセシルが笑顔で入ってきた。

イレヱヌははっとして思わず泡風呂に身を沈める。

「セシル、入っちゃ駄目。濡れちゃうから」

イレヱヌが咄嗟に誤魔化す言葉を言うとセシルはあははっと笑い声をあげて

「僕も一緒に入るから気にしないよ」と言って服を脱衣所に放り投げるとバスタブに入ってきた。

「イレヱヌに会えて良かった。顔を合わせる時間も無いかと思ったから」にっこりとセシルが笑った。イレヱヌは堪らない気持ちになり、セシルに接吻キスをした。セシルは受け入れて手をイレヱヌの細い腰にそっと回した。セシルの肩に頭を埋めてじっとした。

「随分疲れているみたいだね?大丈夫?」

心配そうにセシルが声を掛けてきた。あやすようにイレヱヌの髪を優しく撫でる。

「あたし、この世界向いてない……今更だけど本当に向いてないって分かった」

ぼそぼそとイレヱヌは言った。

「まあ、あたしは他に出来ることがなあんにも何も無いから続けるしかないと思ってるけど」ふふっと吐息の様な笑い声を漏らす。何も可笑しくないのに笑ってしまった。セシルはそんなイレヱヌをじっと見詰めると「It's ok,honey…It's ok…」そういってあやすようにポンポンと優しく後頭部に触れてきた。身も心も溶かしてしまいそうな優しい声だった。泪が出そうになるのを堪えてセシルの膝の上に乗る。セシルは首筋、肩、胸と優しく接吻キスを施しながらイレヱヌの身体をなぞる。イレヱヌもセシルの輪郭を指先で辿ってセシルと熱を分けあった。「大丈夫だよ、イレヱヌ……君はこんなにも美しいんだから……」下からイレヱヌの身体を揺らしながらセシルが恍惚うっとりした表情でそう言った。

毎日が目まぐるしく、一日一日はあっという間に過ぎていった。そして六月に入る頃に最悪の人間が目の前に現れた。

「久しぶりねアイリイン」レジーナという黒髪に緑色の眼をした“レジーナ”と名乗るモデルだった。身長は随分と伸びていたが間違いなくカレン・サリバンだった。

(C'est dégueulasse)最悪だ、イレヱヌは心の中で呟いた。

カレンは亜米利加のモデル事務所フォード・モデルズに所属していた。フォード・モデルズとパリ・プラニングは業務提携をする事で亜米利加のモデルを仏蘭西に送り仕事をさせる事が可能になっていた。イレヱヌは初めてパリ・プラニングと契約したことを後悔した。

そしてカレンは周りより多く仕事を受けていたらしい。雑誌の表紙、ショーに次々と起用された。何でもニューヨークでは既に十三のショーに出演しているそうだ。あの歳で此れはかなり“凄いこと”らしい。イレヱヌはショーにはまだ出ていない。学業を優先しているので拘束時間の長いショーはまだ出るつもりが無かった。今までそんな事気にしたことも無かったのに、得意気なカレンの姿を見るたびに腸が煮えくり返る思いだった。そして仕事で一緒になるたびに「アイリイン、随分仕事が少ないんじゃない?パパやママのコネを使わせて貰いなさいよ!」「今月の表紙はアイリインだったの?やっぱりママに泣きついた?それとももう枕した?」と平気で侮辱してきた。

(死んだら良いのに)

イレヱヌは頭の中で何度もカレンを殺した。何度も踏みつけて、切りつけて、刺して殺し続けた。

(最悪な死に方をして欲しい)

イレヱヌのカレンに対する憎しみは日に日に増していった。

「何で彼奴がカバーモデルなの…」イレヱヌはParis Matchの仕事でのメイク中に思わずぼそりと呟いてしまう。

「あの子は…確か“営業”が激しいとは聞くわね…」ゲイのメイクアップアーティストのジョシュアが顔をしかめながら答えた。

(やっぱりそうか)元から腐った奴だとは思っていたが、心底見下げ果てた奴だ。「C'est dégueulasse……」ぼそりと呟きぐにゃりと身体を曲げる。

「こらこら、そんなにいじけちゃ駄目よイレヱヌ。大丈夫、何時も通りべっぴんさんにしてあげるから」

そういってジョシュアがイレヱヌの顔を基礎化粧品で整えてメイクの土台を整えていった。

(一体あと何回彼奴の顔を見なきゃいけないの?)

恐ろしく気分が沈んだ。

(何とかして消えて欲しい)

イレヱヌは堪らなく残酷な気分になった。

前よりも少し実家と電話をする機会が増えた。国際電話は安く無いこと位は知っていたので電話は無くても良いとイレヱヌは言ったがエドワアドは「未成年でモデル業界という世界で仕事をする娘を心配しない親が何処にいるんだ?」と至極もっともな事を言って定期的に電話をした。此の日も仕事内容や仕事で会った人間等について話をした。一通り話し終わった後に、イレヱヌは

「パパ、カレン・サリバンって覚えてる?」と話を振った。憶えている可能性だろうと思った。自分の父が恐ろしく頭が良い事は知っている。其の時エドワアドは「さて、名前は聞き覚えがあるけれど……」とはぐらかせて終わった。

しかし数日後カレンのスキャンダルが発覚する。不特定多数のデザイナー、雑誌編集者と身体の関係を持っていた事が発覚したのだ。よりにもよってベッドでの写真が世間に出回った。エドワアドは何も言わなかったし、イレヱヌも何も聞かなかった。イレヱヌは話を振っただけだ。

(後ろめたい事をしたのはカレンだし、自業自得ってやつじゃない?)

イレヱヌは鼻で笑った。

(汚い手を使わないとどうせ仕事は貰えない程度の女なんだし)

その後のカレンの事は知らない。人伝に聞いた話だがどうやらプレイボーイでプレイメイトとして活躍した後にハードコア系のポルノ女優に転身したらしい。随分とお似合いの末路だ、とイレヱヌは心中で吐き捨てる。

(あたしは嫌な女だ)

イレヱヌは自分で自分を蔑んだ。別に自分を善人だなんて思った事はない。しかし、此れ程嫌な女だとは知りたく無かった。

(でも仕方無い。だってあたしはこの世界で生きていくつもりだもん)

誰にするでもなくそう呟く。此の世界は腐っている。見た目は熟れて艶があり美しくても、中身は虫に食い荒らされている。

(そしてあたしも……)

自分も同じ位腐っている。それでもイレヱヌは辞めることは無いだろう。何故なら自分には、他に何かが有るわけではないのだから。腐った自分には此処はお似合いのぴったりな世界だ。

(腐った林檎に色付けをしてライトで照らして飾り付けるのが此の世界のやることだ)

イレヱヌはファッション業界も其処にしか居場所を見出だせない自分も、心から軽蔑した。

「イレヱヌはモデルになったんでしょ?凄いよね」サン=ポウルで目を輝かせてジュリエットが言った。

「まだ駆け出しの段階だよ」恥ずかしくてイレヱヌはそう返す。「それでも凄いよ。初めて会ったときからイレヱヌは凄く綺麗な子がいるなって驚いてたけど…。まさかモデルになれるなんて」アンヌも感嘆してそう称賛してきた。(あたしは本当にちっとも凄くないのよ)二人が素直に称賛してくれている事が分かるからこそ、イレヱヌは申し訳なく思った。事実何も凄くは無い。単に自分の親というコネクションが有ったからこその結果だ。そして自分に群がる連中は明らかにそれ目的だ。

(あたしにあるものなんて結局其れだけだ)分かってはいたけれど、更に思い知らされた。本当の才能というものが有る人間との差は明らかだった。

セシルはまさしく本当の才能のある人其の物だった。何度かセシルが出演したピアノバーやカフェ等でセシルのパフォーマンスを見てそう感じた。場の空気を総て自分のものにしてしまう。観客の視線を一斉に集める。歌が上手いというだけではああはならないだろう。

(別に良いけど。どうせ一生続けようとは思っていない訳だし)

イレヱヌは元々長く続けられる仕事ではないとは思っていたものの、続けるほどにファッション業界とは失望の連続だった。ファッションデザイナーはまるでこの世界を救ったり人類の進歩に対する偉大な貢献でもしたかのような態度だ。

そしてカメラマンはモデルを自分の好きなように扱っても良いという立場にあると錯覚するらしい。風の噂では自分と同じ十代の未成年モデルを標的に性的暴行が裏で行われているとも聞いた。モデルのことなんて恐らく同じ人間とも思ってはいないのだろう。

「イレヱヌ今日は一段と美しいね!」自分にではなく、自分の後ろに存在する両親というコネクションに媚を売るものもいればこいつはどうせコネで仕事を取っている、というあからさまな蔑みの眼差しを向けるものもいた。

(勝手にそう思っていたら良いわ)そうだ、勝手に何とでも思えば良い。自分はコネだけでこの世界を生きるつもりはない。何れはハイブランドのデザイナーが頭を下げてお願いするようなモデルになってやるのだ、と蔑みの眼差しに向けて言い返した。

(あたしはあんた達なんかに負けはしない)コネだろうと何だろうとこの世界で生きてやる。何れをはあんた達を見返してやる。そう言い聞かせて自分を奮い立たせた。

「お疲れ様、イレヱヌ。とっても良かったよ」

カメラマンから声を掛けられ撮影が終わる。

「イレヱヌ、デザイナーが今日のパーティーに出席するようにって」「行きたくない」ぼそりと呟いたが

「何言ってるの。此の世界はそういうところで顔を売るのもモデルの仕事よ?今は仕事の量をセエブしているのは知ってるけど、何れはコレクションモデルになることを考えているなら多少は参加もしておかないと」

重い溜め息をついた後に

「……面倒くさい…」と言葉が漏れ出た。実に面倒だ。しかし言ってることは理解出来ない訳ではない。そもそもイレヱヌは両親のお陰でまだ十代の立場にも関わらず他の子達のように朝から深夜まで過酷な労働をこなさなくても良いし、ギャラを大幅に搾取される事もない。せめてデザイナーの要望に応えるくらいはしないと扱い辛いモデルの烙印を押されて仕事が来なくなるかもしれない。はあ、と再び重い溜め息をついた。大嫌いなパーティーの時間がやって来た。

イレヱヌはディスコクラブ“シェ・レジーヌ”に連れていかれる。シェ・レジーヌは夜遊びに興味のないイレヱヌでも知っていた。ディスコではあるものの大人数がただ騒ぐ場所ではなく、セレブたちの社交場だった。入り口は看板もなく、重厚な扉に小さな覗き窓スリットがあるのみだった。壁やソファ、クッションに至るまで漆黒、深紅ボルドー、そしてピンクの天鵞絨ビロウド繻子サテン地で覆われている。ディスコクラブは未成年は禁止の筈だと思ったが、パーティーの関係者なら利用が許可されるらしい。問題なく入店出来た。

ダンスフロアや壁面には多くの鏡が配置されていた。狭い地下のクラブだが、鏡の反射によってじっさいよりも空間が広がっているかのように感じた。

ダンスフロアはサイケデリックなネオンやスポットライトが鏡に反射し、フロア全体が爛々と輝いていた。人々は音楽とネオンに熱狂して夢中でツイストを踊っている。

フロアを囲むように深く腰掛けられるL字型のなソファ席がいくつも設置されている。照明は極限まで落とされ、パパラッチや周囲の目を気にせずに著名人たちがシャンパンを片手に密談できる仕様だった。豹柄の絨毯やクッションがアクセントとして使われている。バーカウンターや手すりには鈍く光る真鍮やゴールドの金具が取り入れられていた。

「やあ、君がジャンヌ・ゴーテンの娘なんだって?」イレヱヌは手を掴まれ、話し掛けられる。苔色のスーツと血膿色のネクタイ、ベストを着た男だ。髪を後ろに撫で付けて煙草とオオデュ・コロンの匂いがする。こくりと頷くと「ちょうど良かった!此方においで!」と強い力で手を引かれる。驚いて振り払おうとしたものの、男は痩躯に似つかわしくない強い力だった。半ば引き摺られるように奥のVIPルームに連れていかれる。

壁は漆黒の天鵞絨ビロウドのみが使われていた。サイケデリックな光が眼に痛い。ゴールドの卓子テエブルの上にはシャンパンの他に煙草のようなものがあった。五、六人ほどの眼が此方に向けられる。其の内の数人は下着姿になっていた。壁に凭れるもの、身体を絡ませ合うもの。此方に視線が向けられている筈だが、眼の焦点が合っていない。煙が充満しているが、煙草の臭いとは違う。鼻を突く、強い獣臭のような火薬のような生臭さだ。一気に血の気が引く。此処は居てはならない場所だ、と本能が警告をした。

「一緒にパーティーに参加しない?とっても気持ち良いよ」

腰をなぞられて顔を近づけられる。

「ねえイレヱヌ。興味あるでしょう?」

掌が蛇のように脚を這い、うっすらと纏う肉を掴んできた。

Arrêteやめて!」「Lâche-moi離せ!」何とか叫んで其処から逃げ出した。

怖い、怖い、怖い――――――!頭の中は恐怖で一杯だった。

何とかタクシーを捕まえてアパルトマンまで戻るとバスルームに入った。お湯を溜めて身体を沈める。身体をごしごしと擦って洗った。眼に見えない無数の蛆に集られているような不快感だった。ひっひっと自分の息遣いが耳許で聞こえる。息切れした犬のようだ。涙が止まらない。かちかちと歯の鳴る音がバスルームに響き渡る。身体の震えが止まらなかった。鏡に自分の姿が映っている。

(――これがあたし……?)信じられない気持ちだった。全身を震わせて顔を惨めに歪めて湯船に沈める自分の姿は、まるで雨に打たれた野良犬のようだった。

(何てみっともない姿なんだろう)

自分が其れ程惨めな姿を曝したという事実に更に惨めになった。顔を湯船に沈める。明日も仕事が入っているのに泣いた跡を残したくは無かった。涙が止まるまで何度も何度も湯船に顔を沈め続けた。何度も顔を沈めながらイレヱヌは自分に言い聞かせる。

(二度と、決して同じ失敗なんかしない)

歯を食い縛りながらそう誓う。

(あたしは二度と相手に侮られるような振る舞いはしないわ。絶対によく知りもしない相手に隙は見せない。信頼出来ない人間には近付かない)

イレヱヌは強く自分に言い聞かせた。

此の腐った世界では其れだけが自分自身を守る手立てだとイレヱヌは確信した。

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